kiyogat’s diary

2023年の1月にブログを始めました。

国外脱出

30年以上前に日本での生活に嫌気がさし、ニュージーランドへワーキングホリデーにいった。26歳のときだ。

 

高校生の時に映画好きになり、主にアメリカ映画ばかり見ていたら、アメリカに無性に行きたくなった。アメリカに行けば、きっとおもしろいことがあるんじゃあないか、何かやりたいわけではなく、そんな感じだったのかもしれない。

 

1週間や10日のパックツアーなんかじゃあすぐに終わってしまう。だから留学できないかと考えだした。当時インターネットなどはなく、情報は全てアナログだ。アメリカ大使館や文化交流センターに行くが高校生の知恵では埒が開かない。高校の先生に相談すると、まずは日本の大学に入学し、それからでも遅くないと言われた。

 

元々日本の大学に進学するつもりはなかったが、アメリカに行くために日本の大学受験をした。受験勉強もしていなかったので、あっさり落ちた。

 

長男が日本蕎麦屋で働いていた。親父が近所の蕎麦屋の旦那と仲が良くて、蕎麦屋は儲かると唆され、「食べ物商売なら食いっぱぐれがねえから、お前は蕎麦屋になれ」と言い、子供たち全員を蕎麦屋にしようとしていた。

 

次男は親父に逆らい、一浪して大学に入った。私は留学もできず、やりたいことも見つかっていなかったために、長男と同じ店で働き始めた。

 

蕎麦屋で働き始めて一番困ったのは長い休みがなくなったことだ。正月休みは三ヶ日、お盆休みは6日間、週一の休みは次の日の仕込みをするためにフルで1日の休みはなかった。

 

それでも6日間のお盆休みには、若さにものを言わせ、自転車でほとんど寝ずに関東1周をしたり、自転車をバラして、輪行で盛岡から東京まで走ったこともあった。

 

そんなことをしながらもいつか日本から脱出するために、週一の休みに英会話教室に通った。

 

変化があったのは5年目のことだ。親父が長男に店を持たせたくて、無理やり結婚相手を探してきた。よくまあ、何から何もでも親父の言いなりになるかと思ったが、嫁さんの方が、そんな二人(親父と長男)に耐えきれず、3ヶ月で離婚してしまった。

 

長男が自分の店を持てば、私とは職場が別れると思っていたが、嫁さん抜きでは店が立ち行かないとのことで、親父に「兄貴を助けろ、そうじゃあなきゃあ親子の縁を切る」と言われた。

 

親が子供の人生を引っ掻き回しているということに気がつかない。が、やもうえず、兄の店で働き始めた。

 

それまでは先輩、後輩で働きずらかったのに、立場は先輩から雇用主になり、さらに居づらくなった。

 

兄が再婚をした頃、喧嘩を売り店を飛び出した。半ば計画的だった。とにかく久しぶりに自由を手に入れた。

 

もう日本を脱出するために、手段も国も選ばなかった。そして冒頭の話へ続く。